友達ができる老後を「標準」にしてしまう残酷さ

「うちの親は九十歳を過ぎても新しい友達がどんどんできて、それが生きる原動力になっている」。こうした話は、語る側からすれば明るい家族のエピソードであり、希望のある話として発せられているのでしょう。けれども、その言葉がそのまま希望として届く人ばかりではありません。むしろ、それを聞いた瞬間に胸の奥を刺されるような思いをする高齢者は、決して少なくないはずです。友達ができる人はいいでしょう。人に囲まれる人もいいでしょう。ですが、そうなれない人は、その言葉を聞くたびに、自分の欠落を突きつけられます。ここで問題なのは、発言した人に悪意があるかどうかではありません。問題は、人生の強者が自分の経験を、あまりにも自然なものとして語ってしまうことにあります。人との縁に恵まれ、社交性にも恵まれ、周囲から好かれやすく、年齢を重ねても新しい関係を作っていける人がいます。それ自体は悪いことではありません。しかし、その世界があまりに自然に語られると、それができない側は「努力不足なのではないか」「性格に問題があるのではないか」と受け取らされやすくなります。ひとつの成功例が、いつの間にか他人を測る物差しに変わってしまうのです。

友人関係は、本人の努力だけで決まるものではありません

そもそも、高齢期に友達ができるかどうかは、本人の明るさや前向きさだけで決まるものではありません。体力、経済力、家族構成、地域とのつながり、配偶者の有無、移動手段、住環境、病気や聴力の低下、さらには若い頃から積み上げてきた人間関係のあり方まで、あまりにも多くの条件に左右されます。

にもかかわらず、テレビではしばしば、例外的に恵まれた人の姿が「こうあるべき老後」のように語られます。毎日楽しそうに外出し、新しい友人が増え、趣味の仲間に囲まれ、年齢を感じさせない活力に満ちています。見ている側は、その元気さを称賛するよう促されます。しかし、そこには大きな見落としがあります。元気な老後のモデルが、そのまま標準として流通してしまうことの暴力性です。

人にはそれぞれ、体力の差もあれば、性格の差もあります。友達が多いことを喜びとする人もいれば、少数の関係を大切にする人もいます。そもそも人づきあい自体が苦手な人もいます。それなのに、社交的であることだけが老後の正解のように語られれば、そうではない人は静かに追い詰められます。高齢者の孤独や孤立を、個人の努力や性格だけで説明するのは、あまりにも乱暴です。

成功談を語る自由より、こぼれ落ちる人への想像力を

さらに厄介なのは、こうした言葉がしばしば「励まし」の顔をして現れることです。「何歳になっても友達はできます」「外に出れば世界は広がります」「人とつながることが生きる力になります」。たしかに一般論としては間違っていないのかもしれません。しかし、一般論がそのまま救いになるとは限りません。むしろ、うまくいっていない人にとっては、その種の正論ほどつらいものです。正しいことを言われるほど、「それができない自分」が際立つからです。励ましは、ときに最も洗練された圧力になります。

人生の強者は、自分の言葉が刃物になる場面を想像しにくいものです。自分にとって自然なことが、他人には到底届かない場所にあるという事実を、実感しにくいからです。だからこそ、公の場で語る人には、成功談を語る自由だけでなく、その成功談が誰をこぼれ落とすかを想像する責任もあります。「うちの親はすごい」で終わらせるのではなく、「そうなれない人も多いのです」「それでも価値は下がりません」と言い添えるだけで、言葉の重さはかなり変わります。

老後の価値は、友達の数では決まりません。新しい友人ができることはたしかに幸運ですが、それができないことは敗北ではありません。静かな暮らしを選ぶ人にも、つながりが少ないまま日々を耐えている人にも、その人なりの尊厳があります。そこを見落として、華やかな例だけを「生きる原動力」として掲げるなら、その言葉は希望ではなく、できない人の心に刺さる棘になります。社会が本当にやさしくあるべき相手は、いつも自然に友達を増やせる人ではありません。そうではない人が、自分を欠陥品だと思わずに生きられるようにすることのほうです。