「自然に反する」という主張は、人間社会を単純化しすぎています
LGBTQをめぐる議論では、ときどき「多様性を認める」と言いながら、本音ではそれを歓迎していない人たちがいるように見えます。表向きは「伝統を守りたい」「社会の秩序が大事です」と語っていても、その底には「男は男、女は女であるべきです」「そこから外れるものは本来の形ではありません」という感覚が横たわっていることが少なくありません。さらに極端になると、自然は男女しか想定しておらず、それ以外の性的あり方は本来ふるい落とされるべきだ、とでも言いたげな発想に行き着くことがあります。
しかし、そうした考え方は、人間社会というものをあまりに単純に見すぎています。人間は、ただ自然の摂理に従って生きるだけの存在ではありません。弱い者、少ない者、不利な立場に置かれた者が、なお人間らしく生きられるように制度や文化を工夫してきたからこそ、ここまで文明を築いてきました。歴史とは、多数派の快適さだけを守る歴史ではありません。少数派や弱者が、理不尽に押しつぶされない仕組みを少しずつ作ってきた歴史でもあります。LGBTQの人たちと共に生きる社会を目指すことは、その延長線上にあります。
まずよくあるのは、「自然に反する」という主張です。男と女が結びついて子どもをつくるのが自然であり、それ以外は本来のあり方ではありません、という考えです。しかしこの議論は、最初から自然という言葉を都合よく使っています。たしかに生殖だけを見れば、男女の組み合わせは大きな役割を持ちます。けれども、人間の性や愛情や生き方は、生殖だけでできているわけではありません。そもそも医療、福祉、教育、法律、芸術、宗教、倫理といった、人間社会の中核にあるものの多くは、「自然のまま」ではなく、人間が知恵で作ってきたものです。眼鏡も、車椅子も、麻酔も、学校も、労働法も、自然界にはありません。人間は自然の一部ではあっても、自然のままに弱い者を切り捨てる存在ではなく、それを補い修正するために文明を築いてきたのです。
「伝統や家族制度が壊れる」という不安は、本当の原因を見誤っています
次に出てくるのが、「伝統や家族制度が壊れます」という主張です。これも一見もっともらしく聞こえます。ですが、本当に家族を壊すものが何かを考えれば、話は違って見えてきます。家族を壊すのは、LGBTQの人が存在することではありません。暴力、無理解、経済的不安、過剰な同調圧力、役割の押しつけ、孤立、こうしたものの方がよほど家族を傷つけます。
むしろ、ある人が自分の性のあり方を隠し、否定し、周囲の期待に合わせるために無理を重ねる社会の方が、家族も本人も壊しやすいのです。本来、家族とは「こうでなければなりません」と型にはめるための箱ではなく、互いの尊厳を支える場であるべきです。LGBTQを認めることは家族制度の破壊ではありません。家族の形を、現実に生きている人間に合わせて少し広げることにすぎません。
「多数派が窮屈になる」という不満は、権利の話を不便の話にすり替えています
三つ目は、「少数派に配慮しすぎると多数派が窮屈になります」という不満です。これは近年かなり強くなっている論点でしょう。ですが、ここには大きなすり替えがあります。LGBTQの人たちが求めているのは、多数派を黙らせて自分たちだけを特別扱いしてくださいということではありません。暴力を受けないこと、侮辱されないこと、仕事や住居や教育の場で不当に排除されないこと、自分の人生を必要以上に隠さずに生きられること、その程度の当たり前を求めているにすぎません。
多数派が少し言葉を選ぶ不便さと、少数派が人間としての尊厳を傷つけられる不利益とは、同じ重さではありません。争点は、「少数派がわがままを言っているかどうか」ではなく、「少数派が基本的な権利を等しく持てているかどうか」です。そこを取り違えると、社会の議論は一気に浅くなります。
「子どもに悪影響がある」という議論は、むしろ差別の害を見落としています
四つ目は、「子どもに悪影響があります」という主張です。これもよく使われます。しかし、何が「悪影響」なのかを具体的に問うと、この議論はたちまち弱くなります。LGBTQの存在を知ることで、子どもが直ちに混乱したり、何か危険な状態に陥ったりするという確かな根拠は乏しいのです。
むしろ、子どもや若者にとって深刻なのは、自分や友人のあり方が否定される環境で育つことです。必要なのは、特定の性的あり方だけを「正常」として教え込むことではありません。他者の違いを知り、いじめや排除に加わらないようにすることです。子どもを守るという名目で少数派の存在そのものを見えにくくするのは、保護ではなく、社会の現実から目をそらさせることに近いのです。
「宗教や道徳に反する」という主張は、他者の自由を縛る理由にはなりません
五つ目は、「宗教や道徳に反します」という主張です。これも完全には無視できません。人は価値観を持って生きますし、宗教的信念を大切にする自由もあります。ですが、問題はそこから先です。自分の信仰や道徳観を持つことと、それを社会全体に強制して、他人の人生の自由を奪うことは別です。
ある人が「自分はそういう生き方を選びません」と考える自由は守られるべきですが、だからといって「他人にも選ばせません」「制度として認めません」「その存在を公にしにくくします」という方向へ進むなら、それは信念の表明ではなく、他者の権利の制限に近づきます。文明社会とは、単一の道徳観で全員を縛る社会ではありません。価値観が異なる者どうしが、互いの自由を必要以上に踏みにじらずに共存する仕組みを作る社会です。
少数派が人間らしく生きられる社会こそ、成熟した社会です
結局、LGBTQを認めようとしない議論の多くは、「自然」「伝統」「秩序」「子ども」「道徳」といった立派な言葉を掲げながら、実際には多数派が安心できる慣れた世界を守りたいという欲求に支えられていることが多いのです。ですが、慣れた世界が安心だからといって、それを唯一の正解として少数派に押しつけてよい理由にはなりません。文明とは、単に強い者や多い者が勝つ仕組みではありません。違う立場の人間が、それぞれ傷つきすぎずに生きられるよう調整する知恵の集積です。
LGBTQの人たちと共存できる社会を作るべきだというのは、特別な理想論ではありません。むしろ、それこそが文明社会の最低限の条件です。少数派の人たちが、自分の本質的な欲求を全部押し殺し、嘘をつき、縮こまって生きなければならない社会は、外見がどれほど整っていても、どこか壊れています。社会の成熟度は、多数派がどれだけ快適かでは測れません。少数派がどれだけ人間らしく生きられるかで測られます。私は、そこを基準にすべきだと思います。LGBTQの人たちを受け入れることは、自然に逆らうことではありません。人間が人間であるために必要な、知恵と節度と想像力を働かせることにほかなりません。