私は最近、自分の感覚に少し恐ろしさを覚えることがあります。アメリカの政治、とりわけドナルド・トランプ氏の言動を見ていると、ふと「プーチンや習近平のほうがまだまともなのではないか」と感じてしまう瞬間があるのです。
もちろん、理性では分かっています。ロシアや中国の政治体制が、言論の自由や権力分立、選挙の透明性という意味で、多くの問題を抱えていることは理解しています。反体制派への圧力、情報統制、権力集中——そうした現実を知らないわけではありません。
それでもなお、トランプ氏の振る舞いを見ていると、「少なくとも向こうは国家として一貫しているのではないか」という感覚が頭をよぎるのです。ここで重要なのは、私が独裁を支持したいわけではないという点です。むしろ逆です。私は、本来自由主義国家に期待していたはずの理性や制度的安定が崩れていく様子に、不安を感じています。
民主主義国家には、本来ある種の「自己修復能力」が期待されています。権力が暴走しても、議会、司法、メディア、市民社会などが相互に監視し、全体としてバランスを保つ。だからこそ、多少混乱していても、長期的には修正されるだろうという安心感がありました。
しかし近年のアメリカ政治を見ていると、その前提そのものが揺らいでいるように感じられることがあります。陰謀論、感情的分断、制度への不信、支持者同士の敵対。そうした状況の中で、民主主義が「自由で開かれた理性的な秩序」というより、「巨大な感情増幅装置」のように見えてしまう瞬間があるのです。
そして人間は、不安定なものを見ると、逆に「秩序だったもの」に安心感を覚えます。たとえそれが権力集中によって維持された秩序であっても、「少なくとも統制は取れている」と感じてしまう。私は、自分の中で起きているのはこの心理なのではないかと思っています。
つまり、「独裁国家が魅力的に見えている」のではありません。「民主主義の混乱が、相対的に独裁国家を安定して見せてしまっている」のです。
これはかなり危険な感覚だと思います。なぜなら、権威主義体制は、表面的な安定感と引き換えに、多くの自由や異論を抑圧することで成立しているからです。外から見える秩序だけを見て、「こちらのほうがまともだ」と判断してしまえば、自由社会が持っている本来の価値を見失いかねません。
一方で、この感覚そのものを単なる「考えすぎ」や「誤解」として切り捨てるのも違う気がしています。実際、民主主義国家の内部で制度疲労や分断が進行しているのは事実であり、それによって不安や幻滅を感じる人が増えているのも自然なことだからです。
大切なのは、「だから独裁が正しい」という短絡に飛びつかないことだと思います。民主主義の混乱と、権威主義体制の危険性は、本来別問題です。片方への失望が、そのままもう片方への信頼に変わるわけではありません。
私は今、自分の中に生まれているこの感覚を、「独裁への憧れ」ではなく、「民主主義への期待が崩れていくことへの動揺」として理解しようとしています。そして本当に問うべきなのは、「どちらが強いか」ではなく、「自由と秩序をどう両立させるのか」なのだと思っています。